宗教教団「法の華三方行」の刑事訴訟の1審判決が、5月1日報道された。同教団に対しての、 実質的にははじめての司法判断が下されたわけだが、その判断には首をかしげる部分が多かった。 司法判断の中で、新聞報道でも話題となった以下の2点を考えてみたい。 ひとつは「足裏判断は金もうけの道具」であり、今ひとつは「教団は金もうけ主義に走り、宗教 団体としての範囲を逸脱した」というものだ。
この2つの司法判断に問いたい。「なぜ、司法がそれを判断できるのか」
「足裏診断」は信者、もしくは信者予備軍の足の裏を教祖福永法眼もしくは その代行者が診断し、その結果に応じて、「がんになる」だの「不幸になる」だの、さんざん
不安を煽り、教団式の治療といった形での喜捨を強要するというものだ。いま、私はことさら教団のやり口に 批判的な書き方をしてみた。しかしながら、これほど悪意に満ちた偏った見方をしたところで、
「これのいったいどこに、違法性があるのだろう」と私は思ってしまう。
足裏診断は科学的根拠に基づいていない、まったくあたらない、そんなもので金を取って 不安を煽るのは詐欺だ、という主張に正当性はあるだろうか。当たらない占い師をその「当たらな
い」ことで違法性を問えるだろうか。科学的根拠に基づかずに金を絞り取っているものなどこ の世にはいくらでもあるのではないか。
2つめの批判はどうだろうか。金もうけ主義に走った宗教教団というのはたしかに感心しないだ ろう。しかし、そんなことを司法が判断していいものだろうか。「なまぐさ坊主」という言葉があ
る。仏教に帰依する僧侶のくせに、金に色にまみれた者をさす。電車の中で高野山の坊主が痴漢 をしたとすれば、これは当然司法の領域だ。その坊主は刑法で裁かれる。ただし、その裁きは
世俗のものであるから、量刑に被告が坊主であるかどうかなんてことは関係ない。
では、この坊主がソープの常連だとしたらどうだろう。戒律の厳しい高野山だから、彼は当然なん らかの罰に服するだろう。少なくとも出世はなくなるし、檀家も「あんな生臭に葬式は頼めない」
ということになるだろう。さまざまな形で社会的制裁が下される。しかしながら、現行法上で は司法からの裁きは一切ないだろうと思う。宗教を司法が裁くことの問題は歴史的な大課題である。
「法の華」のような、歴史性もない、弱小教団だからこそ、今回の司法判断にはたいした批判・反応はなかった。 しかし、事態は一般に思われるよりも深刻であると考える。これを足がかりに、司法、ひいては
体制側が、思想面に踏み込んで、特定の団体を取り締まることが可能になったからである。
ともあれ、今回の司法判断は根拠が不明であり、私もこれ以上語る材料をもたない。 そこで少し視点を変え、訴えをした原告の方に目を向
けてみると、今回の現象が多少とも明らかになる。それと同時に、今の日本の抱えるとんでもない 「甘さ」が浮き彫りになり、不安にもなった。
原告はありていに言えば「法の華三法行」に「だまされた」と思っている人間たちである。 「だまされた」というからには、その詐欺性に気付いた瞬間というものがある。今回でいうと、
原告のほとんどは、足裏診断を当初は信用し、金をしこたま絞り取られた後、だまされた、と 「気付いた」という。
甘い、のではないか。ナニワ金融道の世界なら、「あんさん、そらあきまへんわ」である。 そんなに後になってから気付いた分際で「だまされた」もないものだとおもう。「足裏診断」で「
がんになる」といわれた時、そんな馬鹿な診断を信用しなければ金を払わなくてよかった。「がんに なる」といわれた後、それをさけるための大量の喜捨を要求された時、そんなもので直るはずが
ないと思えれば、金を払うことはなかった。喜捨の要求を受け、金を払ったのなら、それによって 「がんにならないこと」を期待していたのだ。それを後になって「あんなことで将来の発ガン率が
かわるはずがない」なんて、いきなり科学主義に心変わりしたって遅いのだ。喜捨をした時点で、 その人はその金で教団から「安心」を買ったのだ。これは立派な契約だとおもう。契約が済んでか
ら何年かは知らないが、年月が経てから、「医療」という一度は信頼することをやめたものを信頼す ることにしたので「安心」を得た。もう教団の「安心」はいらない。だから買った時の金を返せ……こ
んな手前勝手な理屈が通るなら、この世は消費者天国だ。
結婚すると約束したのに結婚しない。家を売るといったのに、いざ買ってみるとにせの権利書 だった……これを詐欺という。法の華は小額の金で「がんの不安」を煽り、多額の金で「不安
の除去」を売った。注意せねばならないのは、教団は「がんの治療」を売っているわけではない、 ということである。たしかに「がんを直す、予防する」といううたい文句が見え、その点に
おいては問題がないわけではないが、少なくともがんの治癒・予防を教団に期待し、多額の金を払う 人たちは、医療を信頼せず、それ以外のものに自分の生を委託しようとしている人たちである。だ
から、教団の「直す」という言葉も医療的な文脈ではなく、宗教的なコンテクストで理解せねば ならないのではないか。福永が、テレビのインタビューに答えていた言葉に印象深いものがあ
った。「うちの教団に入っていて、がんで死んだ人がいたって? ああ、その人は“直った”んで すよ」。キャスター(ちなみにニュースジャパン)たちは笑い顔で苦しい「詭弁」として紹介してい
たが、死によって癒されたとすれば、それこそ宗教的治癒はないか。私は福永に帰依したいなん て、まるで思わないけれども、あの発言を聞けば、彼が怪しい新興宗教教団の中では、比較的
意識の高い宗教者であることがわかる。
法の華三法行を訴える人たちは、今、教団に帰依することによって救われている人たちのことを考え たことがあるのだろうか。「だまされていた」ことに気付いたから、ほかの人たちも救っ
てあげたいと思っていたら最悪だが、幸か不幸かそこまで頭が回らないらしい。彼らには自分が 失った金への執着があるだけのように思える。
金の管理が甘いくせに、金への執着が人一倍強く、健康管理をしないくせに、生に異常に 執着するのは、この原告たちだけではない。この低金利時代に、あいも変わらず銀行に貯金
するしか脳がないこの国のマジョリティは、こうした心性を色濃く持っている。それまで 徹底して安全・安定の預貯金しかしてこなかったこれらの人たちが、ちょっと煽られただけで、
株に手をだし、やけどする。株は資本主義の強固なルールに守られているから、文句のやりばがな いが、やり場があれば彼らは恥ずかしげもなく言い立てるだろう。「だまされた」と。
追記:2000年9月末現在、株式投信時代を謳い文句に多額のファンドが設定されている。 購入者はあいかわらず、基準価格が下がったら訴えるのだろうか、「だまされた」と。
2000.6 N.T Wrote.